大判例

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東京地方裁判所 昭和63年(合わ)154号 判決

《本籍省略》

《住居省略》

貿易業(自営) A

右の者に対する強盗致傷、国外移送略取・同移送、監禁、爆発物取締罰則違反、兇器準備集合、殺人予備、公正証書原本不実記載・同行使、電磁的公正証書原本不実記録・同供用、旅券法違反被告事件について、当裁判所は、検察官小黒和明並びに弁護人大津卓滋、同高木甫及び同土屋耕太郎各出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人を懲役五年に処する。

未決勾留日数中七〇〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

第一大菩薩峠事件

被告人は、共産主義者同盟赤軍派に所属し、同派中央軍の一員として活動していたものであるが、昭和四四年一一月三日午後三時ころから同月五日朝にかけて、大菩薩峠にほど近い、山梨県塩山市大字上萩原字萩原山四七八三番地の一所在の山小屋・「福ちゃん荘」及び付近の山中に、同派所属の学生ら約五〇数名が、同月七日早朝首相官邸を襲撃し警備中の警察官らに共同して危害を加える目的を持って、鉄パイプ爆弾一七本や登山ナイフ三四丁等が準備されていることを知りつつ集結した際、被告人は、自己が購入の一部に関与した右登山ナイフが搬入・準備されており、同派が引き続きこれらを利用して軍事的行動に出る目的を持っていることを知りながら、これに加わり、よって、同月四日早朝から同日午後三時ころまで、右学生らと共同して他人の身体・財産に対し害を加える目的をもって、兇器である登山ナイフの準備あることを知りつつ集合した。

第二よど号乗っ取り事件

被告人は、赤軍派政治局議長B、同派政治局員兼国際調査委員会委員C、同委員D、同派政治局員E、同派幹部F、同派構成員のG、H、I、J、K及びLら一〇数名と、昭和四五年三月中旬から同月三〇日ころまでの間に、順次共謀を遂げたうえ、航空機を乗っ取り、朝鮮民主主義人民共和国に渡ることを企て、被告人、C、D、G、H、I、J、K及びLの九名が、同年三月三一日、東京都大田区羽田空港二丁目所在の東京国際空港から、日本航空株式会社が運行する同日午前七時一〇分同空港発福岡行きの定期旅客機第三五一便(ボーイング七二七型機、機体番号JA八三一五号、通称「よど」号、同社代表取締役松尾静麿管理)に乗客を装って乗り込み、機内客室の前部、中央部及び後部付近にそれぞれ分散して着席した。

同日午前七時二一分、同機が離陸し、上昇を続けた同七時三〇分すぎころ、富士山上空付近を飛行中、機内の座席ベルト着用の電光表示が消えるや、客席の最前列にいたDが、大声で「共産同赤軍派だ」と叫んで立ち上がり、短刀を隣の乗客の胸元に突きつけたのを合図に、各自が予め準備していた日本刀や短刀(いずれも模造刀ようのものに約七〇~二〇センチメートルの刃を立てたもの)などを手に持って一斉に立ち上がり、搭乗していたスチュワーデス神木広美(当時二二歳・以下いずれも当時の氏名・年齢を示す)、同沖宗陽子(二一歳)及び同久保田順子(二三歳)並びに乗客ら一二二名に対し、右日本刀や短刀を振りかざし、あるいは突きつけるなどしながら、こもごも「静かにしろ」「手を上げろ」などと怒号して脅迫し、さらにCが、客室内前部の機内マイクを使用して、「我々は共産同赤軍派である。今から、この飛行機を乗っ取り、北朝鮮へ行く。乗客も一緒に行ってもらう。反抗する者は容赦しない。静かにしていれば危害は加えない。もし目的が達成できないときは、用意してある手製の爆弾で飛行機もろとも自爆する」などと放送して、乗務員、乗客らを脅迫し、幼児及びその母親など一部婦子女を除く乗客全員、並びに神木、沖宗及び久保田らスチュワーデス三名を、座席に座らせたままベルトを締めさせ、さらに、用意していたロープ等で同人らを順次後手または前に手を組ませて縛り上げ、その間、C、D及びGらが、操縦室内に踏み込み、同室内にいた機長石田真二(四七歳)、副操縦士江崎悌一(三二歳)、航空機関士相原利夫(三一歳)及びスチュワーデス訓練生植村初子(一九歳)に対し、前同様の日本刀や短刀を突きつけ、「静かにしろ」「抵抗するな」「客室の方は制圧したから、おとなしくいうことを聞け」などと脅迫し、相原機関士をロープで後手に強く縛り上げて、植村訓練生とともに操縦室から客室内へ連れ出したうえ、石田機長及び江崎副操縦士に対し、背後から日本刀及び短刀を突きつけ、「赤軍派のものだ。進路を北朝鮮のピョンヤンに向けろ」と迫り、これに応じなければ乗務員、乗客全員を道連れに飛行機もろとも爆破する旨脅迫し、右乗務員及び乗客全員の反抗を抑圧して機内を制圧し、かつ、石田機長及び江崎副操縦士をして抵抗を不能にさせ、C、D及びGらの命ずるままに同機を運行するのやむなきに至らしめ、もって、右旅客機を強取し、その際、前記のロープで緊縛するなどの暴行により、別紙受傷者一覧表記載のとおり、相原機関士及び乗客四名に対し、同表記載の各傷害を負わせるとともに、日本国外である朝鮮民主主義人民共和国に移送する目的で、前記石田機長ら乗務員七名及び乗客一二二名の合計一二九名を自己らの実力支配のもとにおいて略取した。

まもなく、計器類の確認・スイッチ操作の必要上、相原機関士を客室から操縦室内に連れ戻したが、被告人、H、I、J、K及びLが、前記日本刀あるいは短刀を手に持ち、または、登山ナイフを腰に提げ、胸のポケットや腰のベルトに手製の爆弾のようなものを携えるなどしたまま、逐次、客室内を巡回して、緊縛してあるロープを点検し、あるいは通路に立つなどして乗客らの動静を監視し、また、D、Gらが、日本刀や短刀を手にして、操縦室内の補助席から石田機長、江崎副操縦士及び相原機関士の監視を続けたほか、Cが、前同様の機内放送を繰り返すなどして、乗務員、乗客全員の監禁を続け、石田機長に朝鮮民主主義人民共和国への直行を命じたが、同機長からの申出を受けて、燃料の補給と航空地図を入手するため、同日午前八時五五分ころ、ひとまず福岡空港に着陸した。しかし、その段階でも再び機内のマイクで乗客らに対し、「飛び立つまでは、おとなしく座っていてくれ。目的が達成できなければ自爆する」旨告げて威嚇し、被告人、H、I、J、K、Lらが、非常口を点検し、出入口には見張りを立て、その扉の把手をロープで縛るなどして、乗務員、乗客の機外脱出を阻止し、同日午後一時四〇分ころ、乗客のうちの老齢者、幼児及びその保護者らの二三名を同機から降ろして解放した。

その後、引き続き、石田機長ら乗務員七名及び残りの乗客九九名の合計一〇六名を、前同様の方法で支配下においたまま、同日午後二時ころ、同機を同空港から離陸させ、朝鮮民主主義人民共和国に向けて航行させ、まもなく日本国の領空外に出させたうえ、同機が北緯三八度線付近上空に至ったところ、戦闘機からの降下指示と、地上局からの電波誘導を受けて、朝鮮民主主義人民共和国の首都ピョンヤンと誤信して、同日午後三時一五分ころ、同機を大韓民国の首都ソウル特別市近郊の金浦国際空港に着陸させた。

まとなく、Cらは右の事態に気づき、再び同機内外に向け厳戒態勢に入るとともに、Cが機内マイクで、「我々はあくまでピョンヤンに行くことを要求する。もし要求が入れられなければ、乗客の皆さんを道連れに自爆する」旨繰り返し放送して脅迫し、前同様の監視を続けて、乗務員、乗客らの機外脱出を阻止していた。

しかし、同年四月二日午後六時ころ、運輸政務次官山村新治郎との交渉で、同次官が同機に乗り込む代わりに乗客及びスチュワーデス全員を解放することを条件に、朝鮮民主主義人民共和国に飛行する旨の話合いがつき、同月三日午後二時三〇分ころから同日午後三時すぎころまでの間に、乗客九九名及び前記神木広美らスチュワーデス四名の合計一〇三名を同機から降ろして解放したのち、同日午後六時すぎころ、石田機長、江崎副操縦士、相原機関士及び山村次官を乗せたまま、同機を金浦国際空港から離陸させ、同日午後七時二〇分ころ、朝鮮民主主義人民共和国の首都ピョンヤン近郊の美林飛行場に着陸させた。

このようにして、福岡空港までの乗客二三名を同年三月三一日午前七時三〇分すぎころから同日午後一時四〇分ころまでの間、残りの乗客九九名及び神木広美らスチュワーデス四名の合計一〇三名を同日午前七時三〇分すぎころから同年四月三日午後二時三〇分ないし同日午後三時すぎころまでの間、石田機長、江崎副操縦士及び相原機関士の三名を同年三月三一日午前七時三〇分すぎころから同年四月三日午後七時二〇分ころまでの間、いずれも前記「よど」号機内に不法に監禁し、かつ、前記残りの乗客九九名及び石田機長ら乗務員七名・合計一〇六名の被拐取者を日本国外に移送した。

第三公正証書原本不実記載等

被告人は、在日朝鮮人(父)と日本人(母)との間に昭和二六年八月一三日生まれたMが、同四七年三月ころ朝鮮民主主義人民共和国に出国したままで、その日本の戸籍及び住民登録が残っていたところ、自己がMであるように装ったうえ、いずれも、同人につき住民異動の事実がないのに、

一  昭和六一年七月二三日、横浜市港北区大豆戸町二六番地の一所在の横浜市港北区役所において、同区長に対し、Mが三重県三重郡《番地省略》から横浜市港北区《番地省略》甲野荘五号室に転入した旨の住民異動届を提出して虚偽の申立をし、情を知らない同区役所職員をして、権利義務に関する公正証書の原本である住民票にその旨不実の記載をさせ、即時これを真正なものとして同区役所に備え付けさせて行使した。

二  同六二年六月三〇日、東京都世田谷区太子堂二丁目一六番一一号所在の東京都世田谷区役所第二出張所において、同区長に対し、Mが前記横浜市港北区の甲野荘から同都世田谷区《番地省略》乙山荘に転入した旨の住民異動届を提出して虚偽の申立をし、前同様、情を知らない同区役所職員をして、住民票にその旨不実の記載をさせ、即時これを真正なものとして同区役所に備え付けさせて行使した。

三  同六三年四月四日、東京都新宿区歌舞伎町一丁目四番一号所在の東京都新宿区役所において、同区長に対し、Mが前記世田谷区の乙山荘から同都新宿区《番地省略》丙川荘二〇五に転入した旨の住民異動届を提出して虚偽の申立をし、前同様、情を知らない同区役所職員をして、権利義務に関する公正証書の原本たるべき電磁的記録である磁気ディスクをもって調製する住民票に、その旨不実の記録をさせ、即時これを真正なものとして同区役所に備え付けさせて公正証書の原本としての用に供した。

第四旅券法違反

被告人は、他人であるM名義の一般旅券を入手し、同人であるように装って海外へ渡航しようと企て、昭和六一年七月二六日、横浜市中区山下町二番地産業貿易センタービル内神奈川県旅券事務所において、同県知事を経由して外務大臣に対し、香港を主要渡航先とする一般旅券の発給を申請するに当たり、自己の氏名が「M」であり、その本籍が「尼崎市《番地省略》」、生年月日が「昭和二六年八月一三日」である旨虚偽の記載をし、自己の写真を貼付した一般旅券発給申請書を、自己の写真及び他の必要書類とともに同所係員に提出し、そのころ、外務大臣官房領事移住部旅券課に右申請書を回付させて虚偽の申請をし、よって、同六一年七月二八日、情を知らない同課係員をして、右申請書などに基づき、数次往復用一般旅券(旅券番号MH2367693・平成元年押第七二号の1)を発行させて、同年八月四日、前記神奈川県旅券事務所において、同所係員から不正の行為による右申請にかかる同旅券の交付を受けたうえ、同月七日、本邦から香港に向かって出国する際、同六二年六月二四日、ベルギー王国から本邦に帰国する際、同年一二月一六日、本邦からベルギー王国に向かって出国する際、同六三年一月二九日、英国から本邦に帰国する際、同年三月一三日、本邦から英国に向かって出国する際、同月二四日、オランダ王国から本邦に帰国する際、の合計六回にわたり、それぞれ、千葉県成田市三里塚字御料牧場一番地一所在の新東京国際空港において、入国審査官に対し、他人名義の前記旅券を呈示して行使した。

(証拠の標目)《省略》

(争点に対する判断)

〔大菩薩峠事件に関して〕

一  弁護人は、判示第一の大菩薩峠事件に関する、爆発物取締罰則違反及び殺人予備の各公訴事実につき、被告人は、赤軍派中央軍再編のための軍事訓練をするとの認識で一一月三日午後「福ちゃん荘」に集結し、翌四日午後の訓練にひととき参加したことはあるが、首相官邸襲撃に備えての爆発物を使用する軍事訓練とは知らなかったものであるから、爆発物使用の共謀及び殺人予備の共謀には加担しておらず、兇器準備集合の罪についても、首相官邸襲撃という目的意識を欠いていたので、共同加害の目的はなかったとし、大菩薩峠事件の全事実について無罪を主張しているので、以下、当裁判所の判断を示すことにする。

二  赤軍派が首相官邸襲撃を画策した経緯、これに関する武器(主として爆発物)の準備・調達の状況、更に一一月三日・四日の会議・訓練の状況については、証拠上以下の事実が認められる。

1 赤軍派の結成

昭和四四年夏、共産主義者同盟(通称ブント)の内部において意見が対立し、関西ブントの指導的な立場にあったBは、いわゆる「前段階武装蜂起論」を主張して、ブントを離脱し、共産主義者同盟赤軍派(以下「赤軍派」という)の結成を図り、同人に共鳴・同調したE、C、N、Dらと共に、同年八月二七日、神奈川県三浦市城ケ島内のユースホステルで赤軍派の結成準備会を、同年九月四日、東京都葛飾区内の総合区民センターで結成大会を、それぞれ開催した。

2 大菩薩峠事件に至るまでの赤軍派の動き

赤軍派は、世界革命戦争を目標とした前段階武装蜂起を掲げ、昭和四四年秋の決戦を標榜していたが、同年九月下旬ころから一〇月上旬ころにかけて、大阪や東京で、けん銃を奪うため交番等の襲撃を行ったが失敗に終わり、また、同年一〇月二一日の国際反戦デーに臨み、新宿周辺で、初めて爆弾を使用する闘争(一〇・二一闘争)に踏み込んだが、鉄パイプ爆弾は、東京薬科大学で組立て製造中に発覚し使用前に押収され、ピース缶爆弾も、警察官に向けて投てき使用されたが、すべて不発に終わり、いずれも成果を得られなかった。

そこで、右一連の闘争の失敗を踏まえ、赤軍派は、同年一〇月下旬から一一月初めにかけ、都内文京区茗荷谷の禅林泉寺(一〇月二四日及び二七日)、新宿区早稲田付近のアパート(同月二五日)、北区赤羽台団地の一室(同月二九日ころ)、文京区小石川の富坂セミナーハウス(同月三一日)、台東区の上野ステーションホテル(一一月二日)などで、B、C、N、Oら政治局員を中心とし、P、Q、R、S、T、U、Vらや、地区代表者らの出席も得て、会議を重ねた。

右会議は、一〇・二一闘争の失敗についての総括から始まり、まず、闘争のための軍事訓練が不十分であったという認識のもとに、赤軍派内の中央軍を中心とした爆弾を使用する軍事訓練の必要性が確認・計画されて、その場所として大菩薩峠が検討の対象とされ、Pらが現地視察をすることになった。

一方、右会議ではこれと並行して、政治スケジュールに対応した闘争に批判的な立場を制し、大衆の支持を得るため、具体的な闘争方針を打ち立てる必要があるとの考えから、一一月中旬に予定されていた佐藤首相訪米を前に、これを阻止する闘争として首相官邸を襲撃・占拠するという方針が有力となり、同月二九日ころ、前記赤羽台団地の一室で行われた会議では、議論のうえ、右計画が赤軍派の闘争方針として採択され、同月三一日、前記富坂セミナーハウスにおける会議では、Bから、首相官邸襲撃の具体的な計画が明らかにされ、襲撃時にはピース缶爆弾、ナイフなどのほか、主要武器として現在手配中の鉄パイプ爆弾を使うこと、そのための軍事訓練を一一月三日から二泊三日の予定で大菩薩峠山中に一〇〇名程度を集めて行うこと、訓練後に部隊を移動して一一月六日に決行することなどの方針が確認されるに至り、さらに、一一月二日、前記上野ステーションホテルでの会議では、首相官邸周辺の警備状況の視察報告を受け、部隊編成、部隊長の人選が行われ、決行日を、警備が比較的手薄となる一一月七日早朝に変更することなどが決められた。

そして、赤軍派中枢部では、Bを総責任者とする兵站担当者を中心に、武器の製造・調達や、宿舎の確保が進められ、一〇月末、F、Rが、千葉市内、都内葛飾区及び松戸市内にアパートを確保し、一一月初め、Qが神戸市内で猟銃一丁を、R、Wが、岩手県水沢市で猟銃一丁及び散弾多数を手に入れた(なお、右猟銃・散弾は大菩薩峠には運び込まれていない)。

また、一〇月三〇日、U、乙川は、弘前市内で、赤軍派関係者らにより、あらかじめ製造・準備が進められていた鉄パイプ爆弾一七本(爆薬約二十数グラム等を詰めた鉄パイプと、これと分離された試験管に濃硫酸数立方センチメートルを入れてゴム栓をした起爆装置の各一七本)を受け取り、一一月一日、R、Wは、茨城大学において、同年九月下旬ころから赤軍派関係者により製造・準備が進められていたビールびん入り触発性火炎びん約一八〇本を受け取り、同月一日ころ、R、W、被告人、X、Yらは、登山ナイフ等数十本を、手分けして入手し、右鉄パイプ爆弾、火炎びん、登山ナイフは、前記松戸市内のアパートに運び込まれた。

ところで、P、Zは、一〇月二八日、山梨県塩山市の大菩薩峠の近くにある山小屋・「福ちゃん荘」に、一一月三日から同五日の二泊三日の予定で、七〇名の宿泊を確保したので、これを受け、中央軍の構成員らや、地区別に編成・把握されていた赤軍派関係者らに対し、一一月三日午後三時までに、同荘に集合するよう連絡・指示がなされた。

そして、一一月三日午後五時ころ、Zが、前記一〇・二一闘争以降導火線を実戦用に切り詰めるなどして改造したピース缶爆弾三個(たばこピース缶に約二〇〇グラムのダイナマイト等を詰め、導火線付工業用雷管を差し込んだもの)を携行して福ちゃん荘に集まり、翌四日早朝、乙野ら赤軍派関係者が、前記登山ナイフ三四丁と火炎びん五本を、遅れて、同日午後三時半ころ、Uが、前記鉄パイプ爆弾一七本を、それぞれ運び込み、いずれもNらに引き渡され、同荘二階しらべの間の押入れ内に保管された。

なお、丙野ら福島地区からの参加者は、同月三日、独自に入手・準備したくり小刀八丁を各自携行して集合し、福ちゃん荘でも、同人らが個別に保管していた。

3 一一月三日の会議等

一一月三日午後五時ころから八時ころの間に、赤軍派構成員及びこれに同調する者約五十数名が福ちゃん荘に集結し、午後七時ころから九時前ころまで、同荘二階において右の大多数が集まって会議が開かれた。

会議の席上、Oが、赤軍派は佐藤首相訪米阻止に向け首相官邸を襲撃・占拠する、P、Tが、集結した者らを八つの中隊に分ける前提で、「第一ないし第三中隊を攻撃部隊とし、第一中隊は正門から、第二中隊は塀を乗り越え、第三中隊は横門から、それぞれ官邸内に突入する。第四ないし第六中隊は防御部隊とし、第七中隊を遊撃部隊に、第八中隊は決死隊として志願制による警視庁攻撃部隊とし、武器は、火炎びん、登山ナイフ、ゲバ棒などのほか、爆発物である鉄パイプ爆弾を使用する。決行日は今月七日とする。明四日は、火炎びんや鉄パイプ爆弾を実際に使用して訓練する予定であるが、まだ鉄パイプ爆弾は届いていない」旨を伝え、丙野が鉄パイプ爆弾の威力・使用方法などの説明をした後、解散となり、各自同荘に宿泊した。

なお、右会議の前後にわたって、集まったほとんどの者は、逮捕の際の連絡等のため、メモ用紙に、本名・組織名などの自己を特定する事項を記入して幹部らに提出した。

会議後、Tを中心として、集められた右のメモを基に、中隊長の選任替えを含む、従来の中央軍や地区別の部隊区分を見直して第一ないし第七の中隊ごとの編成を決めた。

4 一一月四日の行動

翌四日午前九時すぎころ、中央組織との連絡を担当するNらや、別の任務を持つ少数の者を除く大多数の者約五〇名は、Tから指示された隊編成に従って、部隊ごとにまとまり、大菩薩峠山頂を目指して出発し、午前一一時ころ、大菩薩峠山頂付近の避難小屋(無人小屋)付近の登山道脇の広場(賽の河原)にたどり着いた。

Tは、同所において、参加者を集め、石と紙を用いて首相官邸周辺の見取図を即席に作り、各隊の位置を示して官邸襲撃の際の所属部隊ごとの任務・役割や、四日の訓練の内容などを説明した。

そして、攻撃担当の第一ないし第三中隊を中心に、登山ナイフが配付され、午後一時ころ、右攻撃隊は無人小屋から約七〇〇メートル下のガレ場に下り、P指揮のもとに、石塊、木の枝を爆弾に見立てた投てき訓練や、ゲバ棒による突撃訓練を始め、また、防御など担当の第四、五、七の各中隊も、右無人小屋周辺の広場で、T指揮のもとに、同様の訓練を行った。

途中、不審と思われる二人連れを警戒して訓練が一時中断されたが、間もなく再開され、午後三時ころ、防御隊も、ガレ場に下りて攻撃隊と合流し、P指揮のもとに、前記火炎びん五本の投てき実験がなされたが、一本に火が付いただけで、残りは発火しなかった。

訓練は、午後四時前には終了し、登山ナイフは回収され、一行は、福ちゃん荘に戻った。

そして、午後五時ころから約一時間にわたって同荘二階で、同日の訓練結果の検討が行われ、鉄パイプ爆弾の運搬方法の討議や、火炎びんが発火しなかったり、威力が小さかった原因の検討がなされ、次いで、Pから、同日夕方鉄パイプ爆弾が搬入されたので、五日には実物を使用して投てき訓練を行うことが伝達されたほか、希望者は親族宛の書簡を作成するよう指示された。

そして、同夜も同荘に宿泊したが、翌朝午前六時ころ、警察の手入れを受けて、五三名全員が逮捕され、同時に、前記鉄パイプ爆弾一七本、ピース缶爆弾三個、登山ナイフ三四丁、くり小刀八丁等が押収された。

三  次に、大菩薩峠事件に関連する被告人の行動等は、証拠上以下のとおり認められる。

1 被告人の身上経歴と赤軍派加入の経緯

被告人は、文化財建造物の保存・修理を手掛けていた父の仕事先の栃木県芳賀郡益子町において出生し、神戸市内の小・中学校を卒業後、昭和四四年四月、同市内の高校に入学した。

ところで、被告人は、中学生のころから政治問題に関心を持ち始め、高校入学後まもなく、デモ行進に参加したり、共産主義者同盟系の兵庫県下における高校生組織に加入し、学生運動に係わるようになった。

そして、同年八月、大阪の大学で開催された赤軍派の集会に参加し、当時関西ブントで活動していた丁野、Tに会って、同派に加入することを決意し、同月二〇日ころ神戸市内の自宅から家出し、以後同派構成員らと行動を共にするようになった。

2 大菩薩峠事件に至るまでの被告人の行動

(1) 被告人は、同派では中央軍に属し、当初関西方面で活動していたが、同年九月ころ上京し、一〇・二一闘争後は、一時、渋谷区代々木のアパートに寄住した後、大田区平和島のアパートにおいて、X、Yらとともに共同生活を営み、指導部からの指示を待っていた。

(2) 被告人は、一一月一日、武器調達を担当していたRらから、X、Yなどとともに、登山ナイフ購入の指示を受け、複数の店から手分けして、数本ずつ合計数十本の登山ナイフ等を購入した。

(3) その後、一一月三日午後三時までに大菩薩峠の福ちゃん荘に集合するよう指示を受け、同日午前、X、Yと一緒に出発し、塩山・裂石を経て、午後三時ころ、福ちゃん荘に着いた。

(4) 被告人らは、到着後、救援対策のため、メモに、本籍・住所・本名・組織名等を記入して提出した(メモ一枚・平成元年押第七二号の3)。

(5) 被告人は、同日午後六時ころ、遅れて到着する者たちの出迎えを命ぜられ、Z、X、Yと共に山道を徒歩で下山し、ふもとの裂石バス停まで下り、バス便が終了したことを確認して、再び山道を徒歩で上り、午後一一時ころ同荘に戻った。

(6) 翌四日、被告人は、午前九時すぎころ、P配下の一隊員として大菩薩峠山頂付近の前記無人小屋付近の広場まで登った。

(7) 同日午後、東京で指揮をとっていたBから、秋田の銃砲店を襲って銃を奪うための要員・四名を下山させるよう指示があり、福ちゃん荘で待機していたNからの連絡で、第一中隊長のPが、同隊第二小隊長の戊野と同小隊所属の被告人、丙山及びHの四名に下山して別の任務に就くよう命じ、右四名は、午後三時ころ、訓練現場を離れ、福ちゃん荘を経て帰京し、Cから秋田行きの指示を受けた。

その後、上野駅付近で、戊野・被告人、丙山・Hの二班に分かれて秋田を目指し、途中、丙野がナイフを二丁購入し、翌五日、秋田駅前の喫茶店でR、Wと合流したが、同人らから大菩薩で伸間が逮捕されたので任務を中止する旨伝えられた。

(8) なお、T作成の隊部編成表(前同・押第七二号の4)には、第八中隊を表す欄に、被告人の組織名である丁山の記載がある。

四  爆発物使用共謀及び殺人予備の共謀への被告人の加担の有無に関連し、証拠上以下の事実が認められる。

1 大菩薩峠における軍事訓練の目的

大菩薩峠に赤軍派構成員らを多数集合させた目的は、同派幹部らが企画した一一月上旬を決行日とする首相官邸襲撃に備え、山中での軍事訓練を通じて、隊員らに右闘争における戦術を理解させ、武器、特に爆発物の使用に習熟させ、引き続き右襲撃を実行することにあったことは明らかで、現に爆発物を利用しての訓練が計画され、爆発物の手配もなされていた。

2 事前共謀について

(1) 一〇・二一闘争以降の会議への参加

赤軍派として首相官邸襲撃の方針を確定したのは、一〇月二九日ころの会議であって、その後同月三一日及び一一月二日の各会議では、右襲撃計画が具体的に検討されているが、右各会議に被告人が参加した証拠はなく、また、右に先立って、一〇・二一闘争の総括のため招集された一連の会議に被告人が参加したり、その会議の趣旨を伝えられたことを認めるに足りる証拠もない。

もっとも、唯一、Vの検察官に対する昭和四四年一二月四日付供述調書中には、「日時ははっきりしないが、地下鉄茗荷谷駅近くのお寺のような家で開かれた赤軍派の会合に、O、P、丁野、戊山のほか、丁山(被告人の組織名)と参加していた」との供述記載がある。

右供述調書が作成された時期は、よど号事件が発生する以前で、ことさら被告人を意識して録取されたものではなく、Vの当時の記憶に基づく素朴な供述としての側面を無視できないが、一方、右調書では、会合の開催時期、趣旨が不明であり、また、同人が出席した会合は複数回あり、出席者が多数で会議ごとの入れ替わりもあったという事情を考えれば、前記出席者についての記載を鵜のみにはできない。また、赤軍派結成時からの構成員とはいっても、当時一六歳・高校一年生の被告人が、赤軍派の中枢幹部と同列に扱われたとも考え難い。

(2) 登山ナイフの購入

被告人は、X、Yらと手分けして、多数の登山ナイフ等の購入を命じられて、これを分担している。その時点では、指導部では首相官邸襲撃計画はまとまっており、赤軍派にとって、右ナイフがその軍事訓練及び実戦のための武器の確保を意味したことは明らかである。

しかし、登山ナイフの入手は、大きな殺傷能力を有する爆弾や銃とは異なり、さほど心理的緊張を伴うものではなく、現に登山ナイフは商店から数本単位で購入されており、具体的な襲撃計画を打ち明けられていなくともこれに関与できるものであって、事前に、被告人が指導部の意向を伝えられていたという具体的な証拠もない。

赤軍派としては、前段階武装蜂起・秋の決戦を標榜し、機関誌・ビラ等でこれを内外に宣明していたが、首相官邸襲撃につき、赤軍派内部で実行を前提とする具体的な検討が開始されたのは、一〇月下旬に入ってからであって、最終の方針が確定されたのは同月末ころで、赤軍派としては、右の方針の浸透や武器の調達は、組織の存続をかけた高度の機密に属する事項として、隠密裡に進めることが要請され、当時、中央軍に属してはいたが末端の構成員で、高校一年生であった被告人に、ナイフの調達に際し、その真の用途を教えなかったとしても不思議ではない。

もっとも、被告人は、当公判廷で、従前から中央軍の再編が赤軍派の課題であると考えており、山で訓練すると聞いたので、そのためのものと思っていたと弁解するが、既に一〇・二一闘争では爆発物を用いた闘争にまで踏み込んでいる赤軍派が、山中でのキャンプ生活でナイフ等の刃物だけを利用した肉体訓練をすると考えていた旨の右弁解をそのまま信用することはできないが、同じ中央軍に属し、当時被告人と共に生活し、ナイフの購入に係わったXも、「福ちゃん荘に登るまでは、首相官邸を爆弾を用いて襲撃することは聞いていなかった」と供述しており、赤軍派幹部の真意を聞かされていなかったという限度では、被告人の弁解にも根拠がないわけではない。

また、被告人は、当時赤軍派関係者らとの接触があり、自ら喫茶店で情報を受ける役割にあったが、これも前記計画を知りうる機会が多かったというに止まるものである。

(3) 福ちゃん荘への集結

福ちゃん荘は、人里離れた山中にあり、赤軍派として前例のない相当の数の動員がかけられ、被告人は、中央軍に属さない地方の構成員も集合しているのを目の当たりにし、全員が宿泊して訓練をする予定であると聞いていたのであるから、右訓練が単なる同派の中央軍再編の趣旨に止まらないことは理解していたと推認できる。

しかし、集まった赤軍派関係者には、同派の構成員だけでなく同調者も多数含まれており、赤軍派との関わり、活動歴は千差万別で、年齢層にも幅があり、高校生も十数人含まれていた。そして、地区により、福ちゃん荘に集まる目的についての事前説明の程度は異なり、そのため、赤軍派関係者から誘われ、事情も分からず集まった者や、一一月三日夜の会議で、詳細を知らされて衝撃を受けた者や、翌早朝、連れの女性にも告げないままひとり下山した者など、参加者の多くが、事前には首相官邸襲撃の計画を知らされていなかった形跡がある。

したがって、福ちゃん荘に多数の赤軍派関係者と集合したことのみでは、赤軍派指導部の意図を知っていたことを推認させる状況事実にはならず、事前に襲撃計画を知らされていなかったとする被告人の弁解を排斥することはできない。

3 救援対策用のメモの作成

証拠物として提出されている「救対名簿」と表題のあるメモには、被告人の所属部隊・本名・組織名・住所・生年月日・特徴が記載されているが、被告人は右記載のうち、本名・組織名・住所・生年月日・特徴が自己の筆跡であることを自認している。

ところで、Xは、福ちゃん荘に着いてほどなく、同様の形式のメモを作成したと述べており、一緒に同荘についた被告人も、同人と前後した時期にメモを作成したものと推認される。

右メモには、本人を特定するための記載があり、赤軍派としては、首相官邸襲撃に際して、逮捕者が出た場合、救援を行う趣旨で参集者全員に作成を求めたものであるが、被告人は、そのころまでに右計画を聞かされておらず、また、赤軍派として、参集者に右計画を具体的に伝えたのは同夜の会議が初めてで、後記のように、この会議に被告人は出席していないのであるから、右メモは、被告人において、赤軍派が近接した日時に逮捕者の出ることが予想される態様の闘争を遂行しようとしていることを理解していたことを推認させる限度で、意味があるにすぎない。

4 一一月三日夜の会議

被告人が、福ちゃん荘に着いた後、午後六時ころから、遅参の仲間の出迎えに下山していたため、三日夜の会議に出席しておらず、同荘に戻ったときは皆寝ていて、会議の内容を伝え聞く機会もなかったことについては、Xの検察官に対する供述調書中に、「Z、丁山、Yと一緒に裂石のバス停まで下山し、バスの便が終了したことを確認して登ったが、福ちゃん荘に着いたころには、午後一一時ころになっており、皆は寝ていた」との記載があって、被告人の弁解と一致しており、Zの公判証言も、概ねこれに沿うものであり、福ちゃん荘の経営者の捜査段階での調書にも、夕食前「暗くなったので、道が判らなくなると困るから、むかえに行く」旨数名が下山したとの記載がみられる。

そして、一一月三日の会議は、午後九時前ころには終了していたのであって、被告人ら四名が右会議に参加していなかったことは明らかであり、同荘に戻った後、会議の内容が改めて被告人に伝えられたという証拠もない。

5 一一月四日のTの訓練現場での説明

当日、被告人は、Tの決めた隊編成に従って大菩薩峠山頂に至っているが、部隊編成は従前の中央軍でも行われていたことなので、これが直ちに首相官邸襲撃に向けた具体的な部隊編成であることの認識には結びつかない。

被告人は、賽の河原に着いてから尾根伝いに見張りをするよう命じられて同所を離れ、前記Tの訓練現場での説明は聞いていないと弁解する。

当日、尾根伝いの数か所に見張り(レポ)が配置されていたことは、複数の関係者の供述により明らかであるが、見張りに立った人数・名前の詳細、その時期についての明確な証拠はなく、逆に、前日から被告人と行動を共にしていたXの調書中には、訓練の際に被告人がいたことを示唆する記載もある(なお、合流後の火炎びん投てき訓練の際には、被告人がいないことが肯定されている)。

しかし、Xのいう右訓練場面が、Tの説明後、その程度の時間的間隔を経た段階のものなのかは必ずしも明らかでなく、あるいは、被告人が弁解するように、同日午後、見張りを中止して攻撃隊に合流した後の訓練とすれば、何ら矛盾しないことになり、また、Xの調書でも、Tの説明の際に被告人がいたかどうかの記載はなく、被告人が右説明に先立って見張りを命じられ、その場から去ったため、これに気付かなかったということも十分考えられる。

Tの説明は、多数人がその回りを取り囲んだ状態でなされ、お互いに誰が右説明を聞いていたかについては注意を払っておらず、そのため、右説明現場における被告人の存在を積極的に裏付ける証拠は見当たらない。

そして、Pが、「用心のためTの説明に先立って尾根伝いに見張りを出した」と証言していることをも考えると、前記の被告人の弁解を無視することはできない。

6 訓練への参加

被告人は、午後になって攻撃隊に合流し、自らも投石訓練、ゲバ棒を用いての突撃訓練に参加したことは自認しており、したがって、攻撃隊員に配られていた登山ナイフを見る機会は十分あったと推認できる。右投石訓練は、首相官邸襲撃の際の実戦を想定した爆弾の投てき訓練である。

もっとも、被告人が、Tの訓練現場での説明を聞き、同日の訓練に終始参加しているならば、右訓練が右趣旨の訓練であることを当然に理解していたといえるが、被告人は、「Tから説明を受けた記憶はなく、見張りに出て中途から参加したにすぎない」と弁解しており、前記のように、これを必ずしも不合理・不自然として排斥できない事情があり、また、被告人は前夜の会議に出席していないため、首相官邸襲撃に爆弾が使用されることや、同日の訓練がその爆弾に習熟するためのもので、実物の爆弾訓練も予定されていたことなどは知らなかったものである。

したがって、ある時期の訓練に参加したことをもって、首相官邸襲撃のための爆発物の使用を察知・了承していたものと推認することはできない。

なお、被告人は戊野らと一緒に下山の指示を受け、秋田に行っているが、小隊長の戊野ですら、下山後の任務の具体的な趣旨を告げられていなかった形跡があり、被告人にこの趣旨が伝えられたという証拠は不十分である。

7 部隊編成表の記載について

証拠物として提出されている、T作成にかかる前記部隊編成表は、一一月五日早朝、同人逮捕の際に福ちゃん荘で押収されたものであるが、同編成表には、第八中隊の隊員として、被告人の組織名である「丁山」のみの記載がある。

ところで、第八中隊は、三日夜の会議で、首相官邸襲撃計画の一環をなす警視庁攻撃部隊として説明されたが、被告人は右会議に出席していない。

したがって、同編成表の記載が被告人からの申出に基づくものとすれば、これは、首相官邸襲撃計画の一部としての警視庁攻撃部隊の存在を、三日夜の会議以外の場面で知るに至ったことを推認させる重要な証拠といえる。

右編成表は、右会議の後、救援対策のメモを踏まえて、Tにより同日夜その骨格が作成され、四日にも多少の手直しがなされた(たとえば、同日未明に下山した者や、早朝に上り下りした乙野及び同日午後に鉄パイプ爆弾一七本を搬入していた甲山―Uの組織名―らの記載がある)ものである。

被告人は三日夜の会議に出席しておらず、同日中に第八中隊の存在を知る機会はなく、また、翌日のTの訓練現場での説明の際でも、第八中隊に志願者が一名出たとの発言はないのであるから、被告人が志願を申し出たとすれば、それ以降で、午後三時ころ被告人ら四名が下山するまでの時間内ということになる。しかも、被告人は、その間見張りに出ていて、Pの指揮する攻撃隊の後半における訓練に短時間参加しただけであると考えれば、別の場所で防御隊などの訓練の指揮を執っていたTとの、直接の接点を持つ場面は極めて限られてくる。

Tは、三日夜の会議で警視庁攻撃部隊員を募集したが、ひとりの申出もないので、今後の打診の前提としての心覚えに被告人の名を記載したにすぎないと証言するが、右編成表には、当夜集合したほぼ全員の組織名が実際の部隊ごとに記載されており、打診の心覚えにすぎないものなら、第八中隊を示す欄に、中隊長やその他の隊員の名が併記されていないことは不自然である。

もっとも、首相官邸襲撃計画における各部隊は、当初六隊で編成されていたが、Tの、警視庁への牽制を要するとの考えから、新たに設置・募集されるに至ったものであって、決死隊としての性格上、やむをえず志願制をとったことや、三日の会議で「志願者がいない場合は、四日夜までに指名する」とのPの発言にもかかわらず、現実には同日夜までに指名が行われていないことや、四日の訓練でも第一ないし第七中隊(第六中隊を除く)の訓練が行われただけで、同日夜までに第八中隊の具体的な襲撃計画が検討された形跡はなく、Tら幹部においても、同隊設置の実現性については問題があると考えていた疑いがある。

被告人が第八中隊に志願したと推認することについては、丁野、Z、丁川の検察官に対する各供述調書中における、「一一月四日に(Pが)警視庁襲撃隊への志願者が一人出たと聞いた(との話をした)」旨の記載も、前記編成表の意味を補うものではあるが、かりに、被告人からの申出があったとしても、Tが直接これを受けたとは限らず、被告人が申出をした際の状況や、Tが編成表に記載した経緯は、依然、不明といわざるを得ない。

右のような諸点を検討すれば、部隊編成表の記載などから、被告人が首相官邸襲撃計画の一部としての警視庁攻撃部隊の存在を何らかの機会に知るに至り、これに志願した疑いは強く残るけれども、このことから、直ちに、被告人が首相官邸襲撃計画の全体像や、大菩薩峠での訓練の趣旨等を了解し、爆発物使用の共謀及び殺人予備の共謀に順次加担していたものと推認することには、無理があるというべきである。

五  以上によれば、赤軍派が、一〇月下旬から一一月初めにかけ、首相官邸襲撃の計画を具体化するために話し合った会議に被告人が出席したとの証拠は不十分であって、本件各公訴事実についての事前共謀の主張は根拠がない。

また、検察官が共謀の主張の柱としている、一一月三日夜の会議にも、被告人は参加していない。したがって、被告人は、その会議で出た、首相官邸襲撃の具体的な計画や、右襲撃の際に手配・準備中の爆発物を使用することや、翌日以降の訓練でも実物を用いることなど、爆発物使用共謀や、殺人予備の共謀を基礎付ける中心部分の諸事情は知らされておらず、福ちゃん荘に、ピース缶爆弾が三日午後から存在したことや、翌四日午後三時半ころの鉄パイプ爆弾の搬入も、知らなかったことがうかがわれるし、同日の訓練現場でのTの説明を受けたかについても、これを合理的な疑いなく認めるに足りる証拠は不十分である。

ところで、爆発物使用共謀罪が成立するには、爆発物取締罰則一条に掲げる目的で、爆発物を使用すること等を通謀することが必要であるが、既に検討したように、被告人が右目的に相当する首相官邸襲撃計画を知っていたとすることには疑いが残り、また、右計画に使用される爆発物が準備・手配されていたことも知らされていなかった疑いがある以上、爆発物を使用することの通謀を遂げたとはいえず、同罪の証明は不十分というべきである。

同様に、首相官邸襲撃計画やこれに利用する爆弾等の殺傷能力が非常に高い武器の準備がなされていたことの認識に疑いが残る以上、殺人予備の共謀の前提たる実行行為の具体的な状況に関する了解が欠け、同罪の共謀の証明も不十分といえる。

もっとも、被告人は、事前に多数の登山ナイフ等の刃物類の購入に関与し、これらが福ちゃん荘に持ち込まれ、訓練に使用されることを知って参加しており、現に、登山ナイフ三四丁は四日早朝、福ちゃん荘に運び込まれ、同日の訓練の際、右ナイフが攻撃隊を中心に配付されている。

大菩薩峠の山中に、赤軍派の最高指導部に当たる政治局員や、同派としては前例のない五〇名を越える関係者が参集し、被告人も、右一員として逮捕に備えた救援対策のためのメモに本名・組織名等を記入・提出し、同派幹部らの指示するままに仲間の出迎えや見張りなどの活動をし、短時間とはいえ軍事訓練にも参加している。

したがって、右訓練が、単なる中央軍の再編のための訓練に止まるものではなく、集結者が、赤軍派指導部の指揮に従い、右登山ナイフ(その形状等に照らし、兇器性には問題ない)を用いて、近接した時点における具体的な軍事的行動に出ることを前提にしたものであることを認識し、これに加担する意思、つまり共同加害の目的を持って臨んだことは明らかであって、右限度での兇器準備集合罪の成立は免れない(一件記録によれば、被告人が昭和六〇年春ころ日本に帰国して後も、同六一年八月から同六三年三月までの間に、延約三七〇日余、国外にいたことが認められるので、大菩薩峠事件の共犯者の起訴・公判審理が昭和四四年一一月以降順次行われ、同五八年八月ころ最終の判決が確定していることとあわせ、刑事訴訟法二五四条、二五五条一項により、公訴時効の点の問題は生じない)。

なお、爆発物取締罰則違反、兇器準備集合及び殺人予備の各罪は、一個の行為で数個の罪名に触れる観念的競合の関係にあるので、兇器準備集合を除く右各罪につき、主文で無罪の言渡しはない。

〔よど号乗っ取り事件に関して〕

被告人及び弁護人は、「被告人らは、よど号の機体の強取を目的としていたわけでなく、不法領得の意思はなかった」として、よど号乗っ取り事件に関して、強盗罪は成立しない旨主張する。

たしかに、本件では、被告人らは、機体そのものの財物性ないしその交換価値に着目してこれを奪取したわけではないが、航空機本来の用法である「航行」を利用する意図で、航行中の操縦室・客室の全てを暴力で制圧し、運航につき全責任を負っている機長らを自由に操り、機体全体についての占有を取得したうえ、正規の航路から大幅にはずれた航行を余儀なくさせたもので、被告人らが不法領得の意思を有していたことは明らかである。

右主張は、採用できない。

〔抵抗権ないし亡命権の行使の主張について〕

被告人は、大菩薩峠及びよど号乗っ取りの両事件について、被告人らの行為は、正当な抵抗権ないし亡命権の行使として適法な行為と評価されるべきである旨、主張する。

しかし、両事件とも、証拠上認められる行為の性質・態様及び結果にかんがみれば、法秩序全体の見地からみて到底容認できるものではなく、違法性を阻却すべき事情はない。

右主張も、採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は、刑法二〇八条の二第一項後段、刑法六条、一〇条により昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の所為のうち、航空機を強取して別紙受傷者一覧表記載の相原利夫ら五名に対し傷害を負わせた点は、いずれも刑法六〇条、二四〇条前段に、日本国外に移送する目的で乗務員七名及び乗客一二二名を略取した点は、いずれも同法六〇条、二二六条一項に、右乗務員及び乗客ら一二九名を監禁した点は、いずれも同法六〇条、二二〇条一項に、乗務員七名及び福岡空港で解放されなかった乗客九九名を国外に移送した点は、いずれも同法六〇条、二二六条二項後段・一項に、判示第三の一、二の所為のうち、公正証書原本不実記載の点、同三の所為のうち、電磁的公正証書原本不実記録の点は、いずれも同法一五七条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第三の一、二の所為のうち、不実公正証書原本行使の点、同三の所為のうち、不実電磁的公正証書原本供用の点は、いずれも刑法一五八条一項、一五七条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第四の所為のうち、不正に旅券の交付を受けた点は旅券法二三条一項一号に、他人名義の旅券を各行使した点は同法二三条一項二号にそれぞれ該当するところ、判示第二のうち、国外移送略取、監禁及び国外移送の各罪は、いずれもそれぞれ一個の行為で数個の同一罪名に触れる場合であり、また、強盗致傷と国外移送略取、国外移送及び監禁の各罪は、いずれもそれぞれ一個の行為で数個の異なる罪名に触れる場合であり、かつ、国外移送略取と監禁の各罪との間及び国外移送略取と国外移送の各罪との間には、いずれもそれぞれ手段結果の関係があるので、刑法五四条一項前段・後段、一〇条により、結局以上を一罪として刑及び犯情の最も重い相原利夫に対する強盗致傷の罪の刑で処断することとし、判示第三の一と同二の各不実記載と各同行使との間には、いずれも手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により、いずれも犯情の重い不実公正証書原本行使の罪の刑で処断することとし、同三の不実記載と供用との間には手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により、犯情の重い不実電磁的公正証書原本供用の罪の刑で処断することとし、判示第四のうち、不正に旅券の交付を受けた罪と他人名義の旅券を各行使した罪との間には、いずれも手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により、結局全部を一罪として犯情の最も重い英国への出国の際における他人名義旅券行使の罪の刑で処断することとし、所定刑中、判示第一、第三の一ないし三及び第四の各罪については、いずれも懲役刑を、判示第二の罪については有期懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、最も重い判示第二の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をし、なお犯情を考慮し、同法六六条、七一条、六八条三号を適用して酌量減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役五年に処し、同法一一条を適用して未決勾留日数中七〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、昭和四四年秋、いわゆる左翼過激派集団の一つである赤軍派の構成員らが起こした大菩薩峠事件に、被告人は、判示のように、登山ナイフについての兇器準備集合の限度で関与し、同四五年春、引き続き敢行されたよど号乗っ取り事件の実行正犯の一員に選ばれて北朝鮮に渡り、昭和六〇年春ころ密かに帰国したうえ、他人名義を使用し各地で生活していたことに関し、三つの自治体に偽りの住民異動届を出したり、他人名義での海外渡航に伴う出入りを三回ずつ重ねたという事案である。

大菩薩峠及びよど号乗っ取りの両事件は、いずれも赤軍派の唱えた前段階武装蜂起ないし国際根拠地論の一環として敢行されたもので、目的のためには手段を選ばぬ類の犯罪の典型で、所詮は独自の世界観に基づく反社会的な危険性の高い犯行といわざるをえないものである。

大菩薩峠事件は、赤軍派が首相官邸襲撃計画のため、山小屋及び近くの山中に武器等を用意して同派構成員ら五十数名を集め、軍事訓練に参加させたもので、その大掛かりな計画・目的と、予定されていた組織的・集団的な犯行態様の危険性が社会に与えた衝撃は大きなもので、被告人の関与の程度・認識は結果的には小さかったが、登山ナイフの調達を行い、軍事訓練にも参加するなど、赤軍派の行動の正当性について少しも疑うことなく、これに加担しており、被告人の刑責は軽視できない。

とくに、よど号乗っ取り事件は、多数の乗客・乗員をロープで縛り、日本刀や短刀を振りかざすなど、執拗かつ強度の暴行・脅迫を加えて、婦女子らもろとも人質にして航行中の旅客機を乗っ取り、赤軍派が目的とした北朝鮮行きの要求を実現したという、危険で卑劣かつ悪質な事案であって、狭い機内に多数の乗客・乗員を長時間にわたって閉じ込め、極度の肉体的・精神的な苦痛を与え、安否を気づかう家族らにも、計り知れない深刻な不安を与えたこと、また、我が国における最初のハイジャック事件として社会全体に与えた衝撃も極めて大であり、安全を第一とする航空輸送業務に与えた脅威や、短期間とはいえ、関係諸国との間で解決策をめぐる国際的緊張をもたらしたことなど、極めて重大な事件であり、右犯行に実行グループの一員として加わった被告人の刑責は重い。

もっとも、大菩薩峠事件は、訓練途中の段階での発覚・実行部隊のほぼ全員の逮捕により頓挫し、計画どおりの実害は発生しなかったこと、被告人の関与の程度は判示の限度に止まり、右計画の策定に直接参加したわけでなく、あくまで中央軍の一員として幹部の指示に基づき行動していたものであること、よど号乗っ取り事件では、実行正犯としての、実際に分担した役割は低く、被告人が直接乗客らに積極的な危害を加えた形跡は見当たらないこと、被告人は、赤軍派結成当初からの構成員であるが、組織内での地位は末端に属し、両事件の計画の策定に実質的影響力を及ぼしているわけではなく、指導者・幹部級の者らとは量刑上当然に一線が画されるべきものであること、とくに、被告人は、当時赤軍派内では最も若い一六歳の高校一年生であり、社会的に未熟な、思春期の多感な年頃にあって、当時の過激な学生運動が多発していた社会情勢のもと、赤軍派の行動に無批判に追従・加担していった面があること、さらに、事件から約二〇年経過した現在、被告人は、当時の過激な行動の誤りを率直に認め、今後同じようなことはしない旨述べ、現に、帰国後、友人の助力を得て貿易業を営むかたわら、ボランティア活動にも従事し、社会生活上の基盤を作りつつあること、帰国後の隠密裡の生活中に母親を亡くし、今後は被告人のために部屋を用意している年老いた父親の心情にも配慮していく意向を示していること、その他、被告人には前科・前歴が全くないことのほか、大菩薩峠事件で検挙された未成年者のうち、約半数は家庭裁判所限りの措置で許されており、被告人と同年齢の一六歳で公判に付された者は見当たらないこと及びよど号乗っ取り事件で共謀共同正犯の刑責に問われた赤軍派中堅幹部のひとりが懲役八年に処せられていることなどの事情もあるので、これらを総合勘案して主文掲記の刑が相当であると判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本光雄 裁判官 稲葉一人 裁判官 田村政喜)

〈以下省略〉

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